筆者
深井克純
元JICA国際協力機構パキスタン事務所アフガニスタン支援班班長(中野市西町出身)

志して夢かないアフリカに立つ@

イメージは暗黒大陸?


 ◆アフリカへ

過去七回にわたりアフガニスタン、パキスタンを中心にイスラム教圏の事情を紹介してきた。偶然にも、世界や日本がどのようにイスラムの人々と関係し、交流・協力する必要があるか問われる時と一致していた。

 引き続き、イラン、シリア、アラブ首長国連邦、イラクの難民キャンプなどを紹介したい。しかし、しばしイスラムの世界から西に方向転換する。今後、数回にわたりアフリカ事情について述べる。

 イスラム圏が「白黒」を基調とする渋みのある世界なら、アフリカは色彩鮮やかな「原色」の世界だ。真っ黒な肌に強烈な赤・青・黄色の原色は見事に映える。

 ◆黒人アフリカ

アフリカ大陸は大きく二つの地域に分かれる。一つは地中海に面した北アフリカの国々。ここにはエジプト、チュニジア、モロッコなど日本人に馴染み深い国々が入る。アラビア半島から連続する地域で、イスラムの世界だ。

 南に下がってサハラ砂漠以南の地域は、主に黒人が居住する。ここを「黒人アフリカ」、または「ブラックアフリカ」と呼ぶ。日本人がアフリカをイメージする場合、ブラックアフリカを示す場合が普通だ。

 アフリカというと酷暑の地、マラリアなど熱帯病が蔓延する不健康地、飢餓と内戦など「暗黒大陸」と考える人が多いのは残念なことだ。子供たちは「サファリの野生動物」程度しか思い浮かばない。学校教育の中にアフリカを理解するためのプログラムが必要だと痛感する。

 ◆スポーツで活躍

 最近、五輪やワールドカップサッカーでナイジェリア、ガーナ、カメルーンなどが、メダルを獲得するほどの活躍を見せるようになった。ようやくアフリカの存在も知られるようになってきた。マラソンや陸上長距離で古くから活躍していたエチオピアやケニアは例外的に有名だ。それでも五○を超えるアフリカ諸国の内、一○の国名と首都名を正確に言い当てる日本人は少ない。

 ◆アフリカの飢餓

一九六七年、西アフリカの中心国ナイジェリアで内戦が勃発した。国の東側に住むイボ族と北側に住むハウサ族の対立が原因とされる。国を二分する内戦で、「ビアフラ戦争」と呼ばれる。一九七○年、内戦は終息したが、食料を奪われたビアフラの人々の飢餓状態は容易に解決しなかった。

 現在なら衛星放送やインターネットを通じリアルタイムで、アフリカの惨状が世界に伝えられる。しかし、七○年代では報道カメラマンやジャーナリストによって、日本まで手で運ばれるなど、相当な時間を要した。伝達されるに、大きなタイムラグがあった。

 長野県内でも「ビアフラの飢餓」を紹介、救援をアピールする写真展が頻繁に行われた。高校生だった私の脳裏に、骨と皮になったビアフラの子供の映像が強烈かつ確実に刷り込まれた。

 ◆アフリカに立つ

 現在、イラク問題が注目されている。

私的には、危険国にあまりにも容易に入国できる現代の日本人青年を、逆説的に不幸に思えてならない。七○年代前半、アフリカを志した自分自身との、余りにも大きな違いに驚きを感じる。

 七○年代の平均的日本人青年にとって、アフリカに出かけることは届かぬ夢だった。航空運賃が高すぎて負担が難しい事情もあった。現在のように日本のNGO(非政府組織)が活発に活動している時代でもなかった。アフリカを志しても、実現の可能性はゼロに近かった。

 イラクで犠牲になった青年、人質にとられたNGO活動家やジャーナリスト全てとは言わないが、その多くは余りにも無知で経験不足と言わざるを得ない。ただ、自分も現代青年であれば同じ行動をとった可能性がある。

 その点、七○年代に青春時代を過ごしたことは、かえって幸運だった。促成ではなく、長期間、正規の学識と実務経験を積む以外にアフリカに立つことはできなかったからだ。アフリカを志して一二年後、ガーナで夢が実現した。

写真=ガーナ農業省経済調査局の同僚たちと撮影                               

(北信タイムス2004年11月26日)
<<TOP
  
<<前項 次項>>